今回は、現在TALION GALLERYで開催中の石川卓磨+宮下さゆり「似て非なるもの|Similarity and Unsimilarity」から、宮下さゆりさんの作品をご紹介します。
宮下さんは2011年に武蔵野美術大学油絵学科を卒業し、現在は同大学院の油絵コースに在籍しています。しかし展示されている作品群は油絵ではありません。まずはひとつ見ていただきましょう。
「テーブルはステージになる no.14」
A3サイズよりもちょっと大きいフレームの中に白い紙が配置され、その中に手のひらサイズの絵があります。私はこれを最初に見たとき「あれ、写真かな?」と思いました。テーブルとその上に投影されている手影絵が、くっきりとした光と影によって描かれている。コントラストを強めにした写真を、モノクロームで現像すると、こんな感じになるのではないかと。
じっと眺めていると、ギャラリーの方が声をかけてくれました。「これはハッチングで描かれた絵なんですよ」。
鉛筆で細かいハッチングを繰り返すことで、このようなふわりとした影を表現しているとのこと。ハッチングですか。私は建築学科出身ですが、ハッチングをこのような形で使うということは、あまり考えたことがなかった。ギャラリーの説明がなければ、これが絵だとしても、擦筆(さっぴつ)を使ったのではないかと思っていたはずです。
このような作品が、他にいくつも展示されています。
どの作品を見ても、構図が非常にシンプルです。しかもモノクローム。地味だと言ってもいいかもしれません。でも心惹かれるものがある。それはなぜか。
それを表現する言葉を探すために、私はここにアクセスしてみました。TALION GALLERYはなかなかチャレンジングなギャラリーで、Twitter上に作者同士の対話を投稿しているんです。それをまとめたのがこのTogetterです。
その前半では「メタ絵画性」というのがひとつのキーワードになっているのですが、私にはどうもピンと来ない。確かにテーブルという絵画内のフレームに手影絵を描くという手法は、メタ絵画に位置付けられる。でも彼女の作品群の本質は、そこにはなさそうだ。
これは私の推測なのですが、おそらく彼女は、何らかの「境界領域」を描こうとしているのではないか。例えば「実在」と「非実在」の境界領域。
あるいはそれは、「リアリティ」と「アンチ-リアリティ」の境界領域なのかもしれない。テーブルとその上に投影された手影絵の形は、写真に見間違えるほど、限りなくリアルだ。しかしその周辺の空間は、リアリティが排除された、不思議な空気を漂わせている。
このような「境界領域」を描く上で、影というのは絶好のモチーフになります。しかし白い紙の上に影を描くだけでは、「境界領域」を描ききることはできないでしょう。「リアリティ」や「実在感」をきちんと提示しなければ、その対極にある「アンチ-リアリティ」や「非実在」を感じさせることは不可能なのです。そして両者を同時に感じさせることができなければ「境界領域」も表現できない。
これは一種のパラドックスのようにも見えるのですが、実は二項対立というものは、印象を際だたせるための、最も有効な手法でもある。クリエイティブな仕事をしている人なら、意識しているか否かは別にして、よく使っているのではないでしょうか。
この手法を選択する限り、作者はフレームの中に、実在感のあるモチーフを描かなければならない。できればエッジの立った人工物。これらの作品群ではそれがテーブルとなって現れ、そこに影が投影される。「実在」と「非実在」のコントラストがここに成立し、結果的にメタ絵画性が現れることになる。
このような二項対立は、Togetterでも言及されています。石川さんは「存在感」と「不在感(欠如)」、宮下さんは「フレームの内と外」という表現をしている。ひょっとするとこの絵の中には、多様な二項対立があり、それらの境界領域があるのかもしれません。
さらに興味深いのは、このような「境界領域」の表現が人体と結びつくと、エロチシズムに繋がっていくことです。人体を直接表現するよりも、そのシルエットだけを見せた方が、よりエロチックになる。手影絵のところどころにかいま見える、人の手の曲線。柔らかさや体温までもが伝わってきそうです。
もちろん手法というのは、あくまでも手段にすぎません。表現したいイメージや観念、想念といったものを、いかにして具現化するか。重要なことはここにあります。
これは余談なのですが、先日「ジャクソン・ポロック展」を見に行ったときも、このようなことを考えました。彼はおそらく、生命感や躍動感のようなものを表現したかったのではないか。例えば前半のコンポジションシリーズは、強い色彩でうねるような形状を描くことで、それを表現しようとした。私はここに岡本太郎との共通点を感じました。そして最盛期に多用したポーリングも、そのための手法だったのではないか。しかし晩年はポーリングという手法に自らが縛られて、生命感を失っていく。そんな印象を受けたのです。
何を表現するかが「戦略」だとすれば、手法は「戦術」に過ぎない。戦略は常に戦術の上位に位置する。戦略は簡単に変えるべきではありませんが、戦術は状況に応じて柔軟に変更すべきなのです。
それでも、だからこそ、手法というものは重要だという言い方もあります。どの手法を採用するかは、作家の中の紆余曲折を経て、必然的に決まってくる。作家は特定の手法に縛られるべきではないが、その一方で手法は作家の存在と切り離せなくなる。
これはひとつの罠なんです。その罠を見破れるか否か。アーティストにとって、これは大きな課題になると思います。
すみません、調子にのって、ちょっと語りすぎました。
それはさておき、石川卓磨+宮下さゆり「似て非なるもの|Similarity and Unsimilarity」は、5月2日(水)まで開催しています。明日(4月28日)はギャラリートークも行われます。どんな話が聴けるのか楽しみです。